映画「アマデウス」について少し(本日二つ目です)
2006年5月5日 モーツァルト合唱の神様といわれている人、
ミッシェル・コルボ指揮の
ミサ曲ハ短調K427を聴いてきました。
この曲に対しては、ちょっとキャパが大きすぎた感じです。
東京国際フォーラムのAホール(5000席ちょっと)だったから。
あと、クラシック専用ホールか教会のほうがやっぱり。。
それでも、久しぶりの生モーツァルトを楽しんできました。
この曲は、映画「アマデウス」で、父親の許しなく
コンスタンツェを妻にしたことを手紙で報告しつつ、
挙式シーンで使われた曲です。
実際、この曲は、結婚後初めて妻を伴って
ザルツブルクに帰郷したときに、奉献するために書かれた未完の曲で、
時期的にも意味的にも理にかなった選曲です。
あ、ちょっと、映画「アマデウス」について書きたくなりました。
この映画の中で、一番好きな場面は。
パロディオペラを鑑賞するシーン。
自信もあり、人気もあったのに「フィガロの結婚」も打ち切られ、
父が死に、
妨害もあり、求職も思うにようにならない中、
生活も困窮していく。
そんな中の鑑賞。
宮廷劇場では、着飾った人たちがすまして、
自分の作品を見て(聴いて)いるのだけれども、そこでは、
質素な身なりをした人たち。
そんな人たちが、自分の作った曲を、ほんとうに、
楽しそうに受け入れている。
のを見て、微笑むモーツァルト。
「ドンジョバンニ」や「後宮からの誘拐」
「フィガロの結婚」の曲を、替え歌にしている。
詞も、場面も、
ばかばかしくて、ちょっと下品で。
客席も一緒になって、自身の曲を歌っている。
その客席を、ボックス席から見おろしながら、
ほんとうに嬉しそうに笑う、モーツァルト。
妻と子供を伴って。
けれども、あのおしゃれだったモーツァルトが、
衣装も薄汚れ、カツラもかぶらす、やつれている。
このシーンは、
楽しい場面なのだけれど、
泣けて泣けてしょうがなくなる。
ここに、こんなにあなたを受け入れている人がいる。
楽しんでいる人がいる。
当時は、CDなんかなく、繰り返し聞くこともできないのに、
こんなに、あなたの曲は知られている。
愛されている。
そして、そのことを身をもって知った、モーツァルトは
そのとき、どんなに幸せに思っただろう。
そのパロディシーンの最後に使われていた音楽は、
「フィガロの結婚」のフィナーレの、
「奥方よ許しておくれ」
浮気をした伯爵が伯爵夫人に謝る歌なんだけど、
裏に、貴族である伯爵が自分の過ちを認めることで、
「反権威、反体制」のメッセージとも読み取れる。
でも、そんな俗なことをすべて、昇華してしまう力が、
この曲にはあると思う。
何重唱にもなって、それぞれの気持ちを歌い上げる。
奥方の許しの歌は、単に、夫への許しから、
神の人間への赦しへと、変わっていくような。
このフィガロが上演されて、サリエリが、
モーツァルトの才能に打ちのめされる場面は、
まさしく、このフィナーレのところ。
サリエリのセリフ。
まことの赦しに満ちた音楽が劇場を包み、
圧倒的な感動で観客の心をとらえた。
神がこの小男を通じて、
天上から世界に歌いかけていた
このサリエリですが、
何かを真剣に生み出そうとする人、
表現しようとする人にとって、
とても身につまされる存在なんだと思う。
圧倒的な天才の前に、とても太刀打ちできない自分を知らされて。
創作することも、表現するものも持たない
わたしは、ただただその天才の残したものを
享受するだけ。
それは、幸せなのか、不幸なのか。
映画の最後、
牧師に語る最後の言葉の一部。
自分の存在が薄れていき
私の音楽も忘れられて行く
今ではもうー
演奏もされていない
だが彼はー
のところで、
ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466の
第二楽章が流れ出し、そのままエンドクレジットまで使われてます。
当初、このエンディングには、
「フリーメイソンのための葬送音楽」が
(↑モーツァルトはフリーメイソンの一員でした)
使われる予定だったそうですが、
モーツァルがかいた最も美しい旋律に変更されたとか。
この曲が最も美しい旋律かはともかく、大好きな曲で、
モーツァルトに夢中になるきっかになった曲。
ミッシェル・コルボ指揮の
ミサ曲ハ短調K427を聴いてきました。
この曲に対しては、ちょっとキャパが大きすぎた感じです。
東京国際フォーラムのAホール(5000席ちょっと)だったから。
あと、クラシック専用ホールか教会のほうがやっぱり。。
それでも、久しぶりの生モーツァルトを楽しんできました。
この曲は、映画「アマデウス」で、父親の許しなく
コンスタンツェを妻にしたことを手紙で報告しつつ、
挙式シーンで使われた曲です。
実際、この曲は、結婚後初めて妻を伴って
ザルツブルクに帰郷したときに、奉献するために書かれた未完の曲で、
時期的にも意味的にも理にかなった選曲です。
あ、ちょっと、映画「アマデウス」について書きたくなりました。
この映画の中で、一番好きな場面は。
パロディオペラを鑑賞するシーン。
自信もあり、人気もあったのに「フィガロの結婚」も打ち切られ、
父が死に、
妨害もあり、求職も思うにようにならない中、
生活も困窮していく。
そんな中の鑑賞。
宮廷劇場では、着飾った人たちがすまして、
自分の作品を見て(聴いて)いるのだけれども、そこでは、
質素な身なりをした人たち。
そんな人たちが、自分の作った曲を、ほんとうに、
楽しそうに受け入れている。
のを見て、微笑むモーツァルト。
「ドンジョバンニ」や「後宮からの誘拐」
「フィガロの結婚」の曲を、替え歌にしている。
詞も、場面も、
ばかばかしくて、ちょっと下品で。
客席も一緒になって、自身の曲を歌っている。
その客席を、ボックス席から見おろしながら、
ほんとうに嬉しそうに笑う、モーツァルト。
妻と子供を伴って。
けれども、あのおしゃれだったモーツァルトが、
衣装も薄汚れ、カツラもかぶらす、やつれている。
このシーンは、
楽しい場面なのだけれど、
泣けて泣けてしょうがなくなる。
ここに、こんなにあなたを受け入れている人がいる。
楽しんでいる人がいる。
当時は、CDなんかなく、繰り返し聞くこともできないのに、
こんなに、あなたの曲は知られている。
愛されている。
そして、そのことを身をもって知った、モーツァルトは
そのとき、どんなに幸せに思っただろう。
そのパロディシーンの最後に使われていた音楽は、
「フィガロの結婚」のフィナーレの、
「奥方よ許しておくれ」
浮気をした伯爵が伯爵夫人に謝る歌なんだけど、
裏に、貴族である伯爵が自分の過ちを認めることで、
「反権威、反体制」のメッセージとも読み取れる。
でも、そんな俗なことをすべて、昇華してしまう力が、
この曲にはあると思う。
何重唱にもなって、それぞれの気持ちを歌い上げる。
奥方の許しの歌は、単に、夫への許しから、
神の人間への赦しへと、変わっていくような。
このフィガロが上演されて、サリエリが、
モーツァルトの才能に打ちのめされる場面は、
まさしく、このフィナーレのところ。
サリエリのセリフ。
まことの赦しに満ちた音楽が劇場を包み、
圧倒的な感動で観客の心をとらえた。
神がこの小男を通じて、
天上から世界に歌いかけていた
このサリエリですが、
何かを真剣に生み出そうとする人、
表現しようとする人にとって、
とても身につまされる存在なんだと思う。
圧倒的な天才の前に、とても太刀打ちできない自分を知らされて。
創作することも、表現するものも持たない
わたしは、ただただその天才の残したものを
享受するだけ。
それは、幸せなのか、不幸なのか。
映画の最後、
牧師に語る最後の言葉の一部。
自分の存在が薄れていき
私の音楽も忘れられて行く
今ではもうー
演奏もされていない
だが彼はー
のところで、
ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466の
第二楽章が流れ出し、そのままエンドクレジットまで使われてます。
当初、このエンディングには、
「フリーメイソンのための葬送音楽」が
(↑モーツァルトはフリーメイソンの一員でした)
使われる予定だったそうですが、
モーツァルがかいた最も美しい旋律に変更されたとか。
この曲が最も美しい旋律かはともかく、大好きな曲で、
モーツァルトに夢中になるきっかになった曲。
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