届けられるもの。受け取ったもの。(編集しました)
2007年6月6日 中居さん コメント (4)昔。
クラシックをよく、聴きにいっていたとき。
そんなに、よくは聴いていないけど、
クラシック好きな子といったとき。
わたしにとっては、
平凡で、特にこれといって、
感動するものではなかった演奏。
が、彼女にとっては、とても楽しめたらしい。
その夜の演奏について、
曲について、
奏者について、
熱く語る。
その感動に水を差すのも、
悪いので、
うんうん。
と、聞いていた。
初めは、あんまり生演奏に触れる機会がないから、
この程度の(えらそうで、ごめんなさい)演奏でこんなに感動できるんだ。
と、心の中では、上から目線で聞いていた。
でも、聞いているうちに、
そう思っている自分が偉そうで。
恥ずかしく、哀しくもなった。
けっして、アラを探そうとして聴いているわけではないんだけど、
なんていうんだろ、
なるべく、ニュートラルに受け入れようとするんだけど、
いつのまにか批評家のように、聴いてしまっていた。
沢山というか、そこそこ、聴いてきた経験の善し悪し。
会心の演奏に出会ったときは、
たまたま、その演奏に触れた人よりも、
心に響く度合いは、より深いものとなるようで、
その演奏は得難いものだと、
その場に、その瞬間に立ち会えたときは、
まるで、奇蹟のようで。
誰にともなく、感謝したくなる。
特に、好きな音楽家の演奏だと、格別。
そういう特別な演奏に出会えるのは、
月に2〜3回聴いてても、
年に1〜2、3回あれば、いいほう。
で、一度、席を立てないほどのものに、
包まれたときには、
また、そういう思いを味わいたくなる。
もっと、もっと。と。
たった一曲を舞台に載せるための準備に、
他のジャンルに比べて、相当な時間をかける。
自家薬籠中の持ち曲でも、それはかわらない。
毎回、毎回が真剣勝負で、少しの手抜きが命取りとなる世界。
それでも、
心に残る、得難い演奏会になるのは、そうそうあるものではない。
瞬間、瞬間にあらわれては流れ、消えていく、音。
その音に乗せられて、確かに、届けられたもの。
いや、音に乗せられて、
というか、音そのものに、こめられてるもの。
でも、けっして、とどめてはおけないもの。
儚くも、美しい、きらめき。
だからこそ、
奏者も、観客も、
そのきらめきを求めてしまう。
深く感動したくて、
どんどん、要求は、高くなる。
応えるほうも、きついけど、
求めるほうも、きつい。
いや、奏でるほうが、ぜんぜんきついんだけど。
だから、もうちょっと気楽に、肩の力を抜いて、
楽しんだ方が、いいのかな。
もったいないことをしてるのかな。
とも思ったり。
でも、
大多数には?だった演奏会で、
小さな発見があって、
そうかー。と目を開かれるような、
こぼれ落ちたような、感動をひろったり。
なんの変哲もない、小さなサロンコンサートで、
ブラボーの大喝采はなかったけど、
悲しい曲ではないんだけど、
しらずに、涙がこぼれ落ちていて。
そっと、心の深いところに、届けられたような。
生涯のうちで、3本の指に入るような思いを味わったり。
とかすると、
やっぱり、深く、受け止めれるようになりたい。
って、思ってしまう。
宝物だったのに、
宝物だったと知らずに、
何も手にしないで、
帰ってきてしまうんじゃないか。
という一種の怖さみたいなもの。
なので、感性を磨きたいと切に願った。
とりこぼさないように。
でも、そういう
ピンと張った、空気感から得られるものと、
見落としてしまうもの。
肩の力を抜きつつ、
音楽そのものを、楽しみつつ、
でも、見落とさない。
精一杯に、受け取れたらいいな。
と、決意してる自体が、肩肘張ってるようで、
まだまだ、な感じなんだけど。
これは、
音楽に限らず、
なんにでも、
そういう姿勢でのぞめたらいいな。
と、思っている。
*************************
ライブでの中居さん。
役者の中居さん。
バラエティでの中居さん。
いろんな表現方法で、
いろんなものを届けてくれる。
受け止めかたが、昔よりは少し、
柔軟になれたような気がするのは、
中居さんのおかげだと思ってる。
ライブで、
SMAPそのものを、
体全体で、五感全て使って、楽しむこと。
役者中居から届けられるものを、
読み誤りなく、
こぼさず受け取りたくて。
でも、そうして、
息を詰めるようにしていると、
バラエティで、
息抜いてこうぜ。
って、いわれてるみたいで。
その場、その場での役割だけでなくて、
ライブ、バラエティの中でも、
楽しませるだけでなく、
シリアスな仕事人、中居さんを見つけたりする喜びとか。
発するものを、取りこぼしたくない。
っていう、緊張感もあるんだけどね。
なんかだらだらと、
とりとめもなく書いてしまった。
*************************
中居さんから届けられるもの。
届けてもらう場所に、
パッケージにとらわれず、
ちゃんと受け止めたい。
それが宝物になるか、ならないかは、
わたし次第。
************************
ちょっと、うっとうしいよね。
こうやって、書いてるの。
みんなが、思ってることだろうし。
ちょっと、一年前のことを思い出して、
センチになってしまったから、
書いてしまったのかな。
と、いいわけしてみる。
クラシックをよく、聴きにいっていたとき。
そんなに、よくは聴いていないけど、
クラシック好きな子といったとき。
わたしにとっては、
平凡で、特にこれといって、
感動するものではなかった演奏。
が、彼女にとっては、とても楽しめたらしい。
その夜の演奏について、
曲について、
奏者について、
熱く語る。
その感動に水を差すのも、
悪いので、
うんうん。
と、聞いていた。
初めは、あんまり生演奏に触れる機会がないから、
この程度の(えらそうで、ごめんなさい)演奏でこんなに感動できるんだ。
と、心の中では、上から目線で聞いていた。
でも、聞いているうちに、
そう思っている自分が偉そうで。
恥ずかしく、哀しくもなった。
けっして、アラを探そうとして聴いているわけではないんだけど、
なんていうんだろ、
なるべく、ニュートラルに受け入れようとするんだけど、
いつのまにか批評家のように、聴いてしまっていた。
沢山というか、そこそこ、聴いてきた経験の善し悪し。
会心の演奏に出会ったときは、
たまたま、その演奏に触れた人よりも、
心に響く度合いは、より深いものとなるようで、
その演奏は得難いものだと、
その場に、その瞬間に立ち会えたときは、
まるで、奇蹟のようで。
誰にともなく、感謝したくなる。
特に、好きな音楽家の演奏だと、格別。
そういう特別な演奏に出会えるのは、
月に2〜3回聴いてても、
年に1〜2、3回あれば、いいほう。
で、一度、席を立てないほどのものに、
包まれたときには、
また、そういう思いを味わいたくなる。
もっと、もっと。と。
たった一曲を舞台に載せるための準備に、
他のジャンルに比べて、相当な時間をかける。
自家薬籠中の持ち曲でも、それはかわらない。
毎回、毎回が真剣勝負で、少しの手抜きが命取りとなる世界。
それでも、
心に残る、得難い演奏会になるのは、そうそうあるものではない。
瞬間、瞬間にあらわれては流れ、消えていく、音。
その音に乗せられて、確かに、届けられたもの。
いや、音に乗せられて、
というか、音そのものに、こめられてるもの。
でも、けっして、とどめてはおけないもの。
儚くも、美しい、きらめき。
だからこそ、
奏者も、観客も、
そのきらめきを求めてしまう。
深く感動したくて、
どんどん、要求は、高くなる。
応えるほうも、きついけど、
求めるほうも、きつい。
いや、奏でるほうが、ぜんぜんきついんだけど。
だから、もうちょっと気楽に、肩の力を抜いて、
楽しんだ方が、いいのかな。
もったいないことをしてるのかな。
とも思ったり。
でも、
大多数には?だった演奏会で、
小さな発見があって、
そうかー。と目を開かれるような、
こぼれ落ちたような、感動をひろったり。
なんの変哲もない、小さなサロンコンサートで、
ブラボーの大喝采はなかったけど、
悲しい曲ではないんだけど、
しらずに、涙がこぼれ落ちていて。
そっと、心の深いところに、届けられたような。
生涯のうちで、3本の指に入るような思いを味わったり。
とかすると、
やっぱり、深く、受け止めれるようになりたい。
って、思ってしまう。
宝物だったのに、
宝物だったと知らずに、
何も手にしないで、
帰ってきてしまうんじゃないか。
という一種の怖さみたいなもの。
なので、感性を磨きたいと切に願った。
とりこぼさないように。
でも、そういう
ピンと張った、空気感から得られるものと、
見落としてしまうもの。
肩の力を抜きつつ、
音楽そのものを、楽しみつつ、
でも、見落とさない。
精一杯に、受け取れたらいいな。
と、決意してる自体が、肩肘張ってるようで、
まだまだ、な感じなんだけど。
これは、
音楽に限らず、
なんにでも、
そういう姿勢でのぞめたらいいな。
と、思っている。
*************************
ライブでの中居さん。
役者の中居さん。
バラエティでの中居さん。
いろんな表現方法で、
いろんなものを届けてくれる。
受け止めかたが、昔よりは少し、
柔軟になれたような気がするのは、
中居さんのおかげだと思ってる。
ライブで、
SMAPそのものを、
体全体で、五感全て使って、楽しむこと。
役者中居から届けられるものを、
読み誤りなく、
こぼさず受け取りたくて。
でも、そうして、
息を詰めるようにしていると、
バラエティで、
息抜いてこうぜ。
って、いわれてるみたいで。
その場、その場での役割だけでなくて、
ライブ、バラエティの中でも、
楽しませるだけでなく、
シリアスな仕事人、中居さんを見つけたりする喜びとか。
発するものを、取りこぼしたくない。
っていう、緊張感もあるんだけどね。
なんかだらだらと、
とりとめもなく書いてしまった。
*************************
中居さんから届けられるもの。
届けてもらう場所に、
パッケージにとらわれず、
ちゃんと受け止めたい。
それが宝物になるか、ならないかは、
わたし次第。
************************
ちょっと、うっとうしいよね。
こうやって、書いてるの。
みんなが、思ってることだろうし。
ちょっと、一年前のことを思い出して、
センチになってしまったから、
書いてしまったのかな。
と、いいわけしてみる。
コメント
(↑勝手に一方的に抱きしめっ)
イーダさんのお言葉ひとつひとつに感動いたしましたです。
忘れかけていた大切なことを思い出させていただきました〜(喜)
ありがとうございます!
お言葉だなんて、そんな大層なものでは、ないっす。//////
でも、その言葉の何かに、喜んでいいただけたら、
嬉しいです。
ホントは、昨夜、書いたはいいけれど、
今日、削除しよう。
と、思って帰ってきたんですよ。
そこへ、大好きなしーのさんから、コメントを頂いていて。
ですので、残すことにしました。
しーのさんからの、久しぶりのハグッ。
やっぱり好きだ〜。
しーのさんの場所(日記)で、
しーのさん、また、ハグっしたくなりませんか?
しーのさんにこそ、しーのさんの日記で、
大切なことを教わりました。
あらためて、
ありがとうございます。
待ってます。
またまた共感させて頂いたのでお邪魔しました。
そうです!そうなんですー(感涙)
わたしの場合はバレエ(舞踏)を観るのが好きでよく劇場へかよいました。
わたしの好きなダンサーは毎回舞台で死ぬつもりでやってると、
そして次の日は生まれ変わった自分が新たな舞台を望んでるとおっしゃってました。
本当にそういう魂の踊りでした。
毎回それほどの思いを込めても、それでも、放心してしまうような、ダンサーの方自身が感極まって動けない状態になるほどすべてが超越したようなものにお目にかかるのは、奇跡のようなものです。
まして、こちらがぼーっとしてたらなにもキャッチ出来ない。
本当に、イーダさんのおっしゃってた感性・・共感いたします。
言葉でもない、形もない、でもなにより確かなものが受け取れる。
イーダさんからも頂きました。
お久しぶりです。
バレエも、毎日の鍛錬をおこたれないものですよね。
「毎回、舞台で死ぬつもりでやってる。
そして、次の日は生まれ変わった自分が新たな舞台を望んでいる。」
一流と呼ばれて、それをずっと維持してる人って、
こういうこを、普通のこと、当たり前のこととして、
やってますよね。
そこがスゴイなと思います。
そういう思いで、届けてくれるのだから、
当たり前として、受け取りたくないんですよね。
共感していただけて、嬉しいです。
ありがとうございます。
受け取りっぱなし。
というのは、つらいので、
こういう形でも、
じゃらしさんへ届いたのなら、
嬉しいです。
わたしが、書きはしましたけど、
わたしが、創り出したものではなく、
受け取ったそのものが、源で。
媒介になれたのでしょうか。
バレエは、あまり見たことがないのですが、
シルビィギエムさんとか、
一度、生で拝見してみたかったです。